解放の神学

解放の神学

私にとっての教会

私はキリスト者ではありません。クリスチャンではありません。ただしイエスには非宗教者としては珍しいほど強い関心を持ち続けています。非宗教者にしてしかし最も敬虔でありたいと願っています。(宗教や哲学に望みを持てないがゆえに、「神への唯物論的接近」を図ろうと、物理学者を目指したこともあります。当時は理神論者あるいは汎神論者だったかもしれません。)

高校の頃カソリックの同級生の少年に誘われて教会に遊びに行きました。するとそこには高校生の少女がひとりいて、教会備え付けのオルガンでなにかの聖歌を奏でていました。少女はそれまで見たこともないぐらい清楚で美しく内面からの優しさが周囲に満ちているようでした。黒髪のストレート。紺のワンピース。私を誘った同級生の少年は彼女に私を紹介しました。彼女はとてもかろやかな笑顔で私にようこそと挨拶をしてくれました。彼女の気をちょっとひきたくて、アベ・マリアなら私にも出来る、と申し出て、オルガンを貸してもらいました。上手に弾けたと思う。彼も彼女も喜んでくれました。ややあって彼は彼女とひとことふたことクリスマスにむけてのなにかの打ち合わせをしています。彼はきっと彼女のことが好きなんだろうなぁと横顔を見ていて思いました。そのことをからかう雰囲気ではなかったし、初対面ながら私も彼女に魂を抜かれたので、私はにこにこしているしかありませんでした。

神父が登場しました。あいさつをしました。同級生の彼とオルガンの君は先程打ち合わせていた用事があるらしく、私に断りを入れた上でちょっとだけ席をはずしました。

神父とは最初世間話をしました。何かをきっかけに私は質問をしたように思います。正確な内容は覚えていません。ひとことで言えば神義論あるいは弁神論周辺の質問をしたかと思います。日頃から疑問だったことをぶつけたのです。

  • 聖書には悪魔の実在が書いてある。旧約ヨブ記では神と悪魔があろうことか賭け事をしている。ヨブをいじめにいじめぬいてもヨブが信仰を捨てないかどうか試している。ヨブがくじければ悪魔の勝ち。ひどい話じゃないか。ありえないほどの連続する苦難を与えられたヨブがかわいそうすぎる。賭けの対象のヨブは信仰ゆえまだしも聖書上では救われるている話なのかもしれないが、ヨブの家族なんて何のトガもないのに、ヨブを苦しめる為にだけ、殺されてさえいる。そんな愛のかけらもない非道な賭け事なんかしてるひまがあるのなら全能の神はとっとと悪魔を無力化すればよいではないか。
  • そもそもエデンに蛇なんているから人間は堕落したのだろう。蛇が善悪を知る知恵の木の実を人間に食べさせたのだ。神が全能なら最初から予見して蛇など創造されなければよかったのに。自分のミスは棚に上げておいて単純に騙された人間を楽園から追放して苦しみを与えるのは何故か。よしんば全能の神がミスをしなかったと言うのなら、悪たる蛇と知恵の木の実をわざわざエデンにおいていたのは何故か?人間が堕落するようにわざわざ仕組み、その通りになっただけではないか。なぜ人間に苦しみを与えるのだ。
  • なぜこの世に戦争や貧困や病気があるのか。なぜ生まれつき不幸な子どもがいるのか。神が全能ならば直ちに救うべきである。アダムとイヴの罪ゆえにその子孫たる私たちは生まれつき罪(=原罪)を受け継いでいるという。まさかと思うが原罪のせいで生まれつき不幸な子どもがいるのではあるまいね?誕生したと思ったら戦争で死んでしまう子には何の罪があるのか。全能の神はなにゆえ即刻人類全体を救わないのか。
  • キリストは一回しかこの世に現われなかった。それも一部の地方だけだ。あの時代に生まれていた他の地方の人間なんて全然神は救う気がなかったのだろう。えこひいきではないか。他の時代に生れていてキリストにいっぺんも出会うチャンスがなかった人間も救われないではないか。これもえこひいきだろう。神が全能ならば全ての人間の目の前に時代を超えて地域を越えて絶えず普遍的にイエスを御遣わしになるべきである。1回しかよこさないなんてどういうことだ。次にキリストが再臨するときには既にこの世の終わり、最後の審判の時と聞く。けちくさいにもほどがある。
  • 全能の神が悪を創り全能の神が人間を苦しめ全能の神が救いをよこさないことに疑問がある。

ざっとこんな雰囲気で私は疑問をぶつけたと思います。私はけしてイジワルで神父を詰問したのではありません。真剣に考えた上で質問したのです。

神父は顔を真っ赤にして怒りだしました。正直、神父が何を言っているのかわかりませんでしたが、一部だけは聞き取れました。「お前は悪魔の手先だ。既に地獄行きは決まっている。救われない。」

騒ぎを聞きつけたのかどうか、単に用事が終わっただけだったのか、同級生の彼がやってきました。神父にささやいた後、私にかけより「すまなかったね。」と小声でつぶやいた後、私たちは教会から外に出ました。オルガンの君が窓からこちらを見ていました。手をふっていましたが笑顔はありませんでした。彼女に申し訳なく思いました。

青空。脱力感だけがありました。私を誘ってくれた彼の教会内での立場は悪くなったかもしれません。そんな心配をしているなか、彼は世間話をしていました。私は適当に相槌をうち無理して笑ったような気がします。こんなことで僕らの友情は壊れない。わざわざ口に出すまでもなくお互いにわかっている。「あのこかわいいな。」そんなふうに言ったかと思います。彼は「高嶺の花だよ」と言って笑っていました。

解放の神学

中南米における解放の神学の虐げられたゴツゴツした手を持つ農夫の姿をした典型的な十字架

ずっと後に私は「解放の神学」を知りました。

中南米アメリカによる実質的な植民地支配が行われ、独裁的な諸国家をアメリカが強力に支援していた時代に、反米武装勢力が出現。闘い。戦闘。ゲリラ。社会主義思想の伸張。

現地の一部の教会では「愛」が最も尊ばれたのだと思います。傷ついたゲリラであろうと政府軍側であろうと、かくまったりするのが当初の始まりだったのだと聞いています。

やがて、後に「解放の神学」と名前のついた運動が起こります。図の十字架ではイエスの手足がゴツゴツして太いです。農夫の手足です。大地主から搾取されている弱者の農夫が苦しみを受けているという意匠が込められています。イエスが私たちの苦しみをわかってくださっている、そのようなシンボルなのですね。この十字架は中南米でよくみかけることがあるそうです。解放の神学とも深い関わりがあるとのこと。中南米の弱者達は非人道的な現実の中で懸命に生きています。どれほど搾取や抑圧を受けても、これこそ神のご意志によって自分に与えられた定めだと信じる者がいるのです。現実に存在する苦しみに司祭達はどのように立ち向かうのでしょうか。信仰を守っていれば、死後、天国に行けるよと、ただなぐさめるだけなのでしょうか。

解放の神学(かいほう―しんがく) は第2ヴァティカン公会議以降にグスタボ・グティエレスら主に中南米カトリック司祭により実践として興った神学の運動とそれをまとめたもので、それに対する議論も多く、教皇庁でも批判者がいるが、世界的には広く受け入れられている。

キリスト教社会主義の一形態とされ、民衆の中で実践することが福音そのものであるというような立場を取り、多くの実践がなされている。中南米プエブラ司教会議でも支持されたが、共産主義と意図的にも無知からも混同されて中傷される事も多く、各国で政府側からも反政府側からも司祭やシスターなどが暗殺される事が多い。一方でフィリピンやインドネシア東ティモール、ハイチなどでは実践が重ねられている。

ソブリノは解放の神学の中心課題は貧しい人たちと神学あるいは信仰をつなぐということで、本当に現実の傷に手を入れた神学だったから、不正とか非人間的状況だとか、貧者を排除するようなグローバリゼーションがあるかぎり、解放の神学はあり得るんだということを言っています。

※グローバリゼーションの背景はアメリカばかりではありませんが。

現実というのは解釈するものではなくて、変えていくものなんだということなんです。その中で女性解放運動というのは「時のしるし」で、見過ごすことはできないものであって、それに対して、自分がどう応えていくかということが問われていると捉える。「時のしるし」というのはバチカン公会議の後、一九六八年のコロンビア・メデリン会議に引き継がれ、中南米の現実で見過ごせないということは何かということになったわけですが、あくまでも排除されている人を神学の場とすること。キリスト教の神は父であり母であり、一番愛されにくい人を愛することでみんなが愛されるべき存在であることを示す、そういう意味で解放の神学は意味がある。それから神学というのは実践論だということ、行動しない神学から行動する神学へ。

歴史上のイエスを見ると、彼は時の政治権力と宗教権力と闘って殺されるわけですよね。貧しい、抑圧された人たちと神様は関係があるんだということを言いたいわけです。エルビエホの人びとは今まで、抑圧に我慢したら死んだ後に天国で幸福になれるんだと思って我慢していたけれど、今ここに自由の国、愛の国を実現しなければならないんだ、踏みつけられている現状を変えていくんだ、ということに気づいたって言うんです。殺されたエラクリアというエルサルバドルの中米大学の学長が「神学とは、歴史の中で十字架にかけられている民衆の立場からすべてを解釈すること」ということを言いました。つまり十字架にかけられている民衆が原点であるという見解です。イエスの神と貧しい民衆とを、イエスの実践の中でつなげていく。

解放の神学者の新しい課題については、グスタボ・グティエレスが南米の教会に関して「除外と排除のグローバリゼーション」ということを言っています。彼は、二種類の人間、つまり生きられる人間と生きられない人間がいて、人間の根本的な尊厳と生きる権利が脅かされているという問題がある、それは階級問題よりもっとラディカルな問題であると言っています。その二つの引き裂かれた世界を解放の神学がしっかりと受け止めなければならない、と。もう一つ彼が言っているのが、ポストモダン個人主義。これはまさに人間が人間らしく生きるためには関わらなきゃ生きられないというキリスト教とは正反対の考えです。神っていうのは三位一体、父と母と子の聖霊で、神そのものが関わりであり連帯であり対話であり、そして人間というのがその似姿ならば、やっぱり関わって、対話して連帯して、もっと人間らしさを助けるような関わり合いが必要、ということなんです。

サンダニスタの革命は失敗に終わりました。強力なアメリカによる梃入れでコントラが実権を握りました。ですが、解放の神学は終わっていません。私ごときが頭の先っちょで考えた神義論や弁神論など無価値です。腹にどんと落ちた信念でもって、苦しんでいる者、辛い思いをしている者を、人間同士協力して助けることが、求められているのだと思います。

※余談ですが、上記引用のラテンアメリカの民衆運動と解放の神学の全体を読み通すと、解放の神学 - Wikipediaの記事中にある各種関連項目内容がおぼろげながらわかる仕掛けとなっています。虐げられている者を救う運動です。

当然のことながら解放の神学は徹底的に反戦の立場に立っています。下記のリンク先をお読み下さい。イスラエルパレスチナの紛争の問題やイラクへの軍事介入などへの視点が明確です。宗教的文言を抜いて読みすすめるとわかりやすいのかもしれませんが提案されている具体的かつ現実的な解決策には、無宗教者の私でも全くもって頷かざるをえません。正しい信仰は正しい知恵を導くのだと思います。

なお、ラテンアメリカの民衆運動と解放の神学でも少々触れらていましたが、バチカンの中では比較的に改革派であったとされる前教皇ヨハネ・パウロ二世によって組織的に解放の神学が弾圧されています。戦争推進者ゴリゴリ右派のレーガン大統領(当時)とも連携していたようです。残念。なお現教皇は、前教皇よりも保守派であると聞きおよんでいます。

解放の神学が何に対してどのように挑んでいるのかがわかる例が他にもあります。弱者への援助と不正を行う強者への批判とを、暴力を拒否しながら実践しています。現実は変えていくもの、神学は実践論、行動しない神学から行動する神学へ、という精神なのでしょう。虐げられている者への援助を、命をかけて行う司祭達の姿に心を打たれます。

キリスト教ばなし

今日は書ききれないので、いづれまた。バチカン内部の保守勢力と革新勢力の話。陰の教皇カザロリ元枢機卿とピエール・テイヤール・ド・シャルダン司祭のキリスト教進化論、進化論とキリスト教根本主義とも関わってくるし。「魂」の信仰を機軸とした元司祭で破門されたエマソンの「超越的」神概念。エマソンのオーバーソウル。そしてエマソンから思想を学びプロテスタントと仏教とを統合理解しようとしたジェームズ・アレン。アレンによって私は原始仏教とイエスの山上の垂訓が連結したんだけれど。それと、小説を2本紹介。「イエスの古文書」と「イエスのビデオ」。両方とも軽快な活劇小説なんですけどね。片方は陰謀もの。片方はSF?でもね、生きることって何だろう?イエスって何者?ってのが凄く心に響いたんですよ。両方とも主人公が負けるんです。珍しいですよ、アンハッピーエンド。でも最後に主人公が本当の生き方をつかむんです。感動。…大風呂敷でまとめにくいです。続き書くのは無理か(笑)

実はおとつい極めて鮮烈な夢を見て、あやうく(キリスト教に)回心してしまうところでした。回心するまさにその時に目が覚めてしまい救済されそこないました。がっかり(笑)。イエスに会いました。御顔は見てません。我が全身の感覚がそれどころじゃなかったです。これも今日ネタ的に書こうと思ったんですけどね。機会があれば忘れないうちに。

※余談:昨日松永さんの件をお話しましたけれど、松永さんと私とはジェームズ・アレンつながりがちょっとだけあります。