責任能力と裁判について思う

ニュースを見てはため息をつく。責任能力と裁判について考えている。結論など容易く出ない。聖書学者である田川建三氏によるコメントを読んで感銘を受けたので長文の引用をあえて試みた。


近頃の刑事裁判とそれをめぐるマスコミの論調で、すでにかなりその傾向が強くなっていましたが、池田の小学校の事件でますますひどくなりました。

つまり、犯罪者が犯行の時点で 「責任能力」 (是非善悪を判断する能力)に欠ければ、無罪になる、という例の理屈です。

これは奇妙ではなかろうか。そのおかげで、少なくとも、精神病者に対する差別が、ひどくなっているのではないでしょうか。

考えてもみて下さい。汚職国会議員や汚職高級官僚は (もちろん、はっきり汚職として摘発されていない、うまく「合法的」 な格好をととのえて、ごまかしている連中の方がもっと罪深いのですけれども)、まさに 「是非善悪を判断する能力」に欠けていたから、平気であのような犯罪を犯し、相変わらず犯し続けているのではないでしょうか。

「是非善悪を判断する能力」 に欠ければ無罪というのなら、あの連中、みんな無罪になってしまう。

いえ、まあ、冗談は別として (もっとも、皆さん、これを冗談だとはお思いにならなかったでしょうし、私も別に、気の利いた洒落を言っているつもりではなく、本気で腹が立っているのですけれども)、一般的に言って、大部分の犯罪は、その犯行の瞬間においては (あるいは、そこに到り着く過程においては)、その人物は是非善悪の判断を見失ってしまっているからこそ、常軌を逸した犯罪を犯すことができるのではないでしょうか。

偶発的な、事故みたいな出来事を別とすると、大部分の犯罪はそういうことなのだと思います。

問題は、ですから、そういう時に (あるいは汚職議員や官僚の皆さんのように、ずっと長いことかかって)、是非善悪を判断する能力を失ってしまうような、そういう生き方をしてきたことに対して、責任が問われるのではないでしょうか。

ところが、今の裁判では、特に弁護側は、犯罪の事実が明白であり、容疑者に言い訳の余地がない場合には、「無罪」 をかちとるために、何とか精神鑑定に持ち込み、精神異常であれば責任能力がない、と言い立てようとします。その論理に裁判所もマスコミものってしまっているから、検察側はそれに対して、「いや、精神異常ではなかったのだ」、と立証しようと努めることになります。

このようにして、両側が協力して、この論理を世間に流布する作業をやっているのです。

それをマスコミが増幅する。

これは、精神病者に対して失礼ですよ。

この論理が立っている前提は、精神病者であれば必ず 「是非善悪を判断する能力」に欠けているのだから、いつ何時、とんでもない犯罪を犯すかもしれない、しかも御本人は、それが悪いと思っていないのだから、どうにもならない、ということです。 → だから 「無罪」 だ、という。しかし、弁護側が、夢中になって、「だから無罪だ」と主張するたびに、世の中のすべての精神病者に被害が及ぶ、ということに気がついているんでしょうか。

この論理が通るのなら、精神病者はみんな危険だ、ということになってしまいます。

そこから、池田の小学校の事件以来特に強くなってきた意見は (小泉内閣の危険性の一つでもありますが)、「精神病者は危険だから、隔離せよ」 という意見です。

しかし、よくお考えになって下さい。大多数の精神病者は、精神病を病んでいるその最中においても、十分に是非善悪を判断する能力を持っているのです。

私は、大学の教師であり宗教学者であるという仕事上、かなり多数の精神病者とかかわってきました。そして、私の知っている精神病者はみんな、むしろ他の人たちよりも、はるかに是非善悪の判断に関して、敏感です。非常に敏感であるからこそ、しばしば、ほかの人よりも心理的な負担が非常に大きく、そのせいで病気になったりするのです。そういう人たちを多く見ていると、精神病者は是非善悪の判断に欠ける存在だ、という今時の裁判の論理には、非常に腹が立ってきます。

現に、今や、数多くの精神病者が、池田の小学校の事件以来、この論理が非常に幅をきかせてきたせいで、安心して精神科の医者に通うことができなくなりつつあるではないですか。世間の無責任な眼が、彼らは是非善悪の判断に欠けるから、何をしでかすかわからない恐ろしい人間だ、などとささやいて、彼らを村八分にしようとするからです。

精神病でない人たちのことを考えてみて下さい。本当は、事情は同じではありませんか。

是非善悪の判断に欠ける人たちが、国会議員になると、汚職をするのです。是非善悪の判断に欠ける人たちが官僚になると、汚職をやらかすのです。いや、もともとはその能力があったのかもしれないけれども、国会議員や官僚を長年やっているうちに、是非善悪の判断力が摩滅してきた、ということもあるでしょう。とすると、彼らのその環境が問題なのですが、だからとて、環境のせいで是非善悪の判断力に欠けたから、無罪にする、ってなわけにはいかないでしょう。

同じ環境に置かれても、同じ犯罪を犯さない人も大勢居るんですから。

それとまったく同様、精神病だから是非善悪の判断に欠けるのではなく、何らかの事情で、是非善悪の判断に欠ける人が精神病にかかった時に、それが表に出て来た、というだけのことです。その人は、精神病にかからなければ、ほかの形で是非善悪の判断に欠けることを示していたことでしょう。

もしも、犯罪に対して刑罰が必要であるのなら (今の世の中、ほかの手段は結局だれも思いついていません)、犯罪者が精神病であるなしに関係なしに、同等 ・平等な刑罰に服すべきでしょう。

そして、刑に服した犯罪者は、ましてや裁判中の容疑者であればなおさらのこと、病気であれば、病気の治療を受ける権利があります。犯罪者ないし容疑者が、盲腸炎の発作を起こしたら、当然、しかるべき仕方で入院し、適切な治療を受けるでしょう。ならば、精神病者も、受刑中であれ、まして裁判中であれば、自分の病気の適切な治療を受ける権利があるんです。

それと、裁判とは、別の話です。みんな平等の条件で、裁判を受けるのが、正しい裁判というものでしょう。

精神病は、病気なんです。盲腸炎や、歯痛や、ほかのすべての病気が病気であるのと、同じことです。重い軽いの違いがあっても。病人は、病気の治療を受ける権利があります。けれども、いけ図々しく汚職をくり返す連中が、糖尿病にかかったとしても、病気の治療を受ける権利はあっても、そのことによって、汚職の免責がなされるわけにはいきません。

まして、糖尿病の人間はみんな汚職を犯す危険があるから、公職追放せよ、などということは、誰も言わないでしょう。

病気であるなしに関係なく、責任能力を欠如した人たちだからこそ、裁判において責任を負ってくれないといけないのです。

なまじ、「精神鑑定」 によって 「無罪」 をかちとろう、なんぞとするから、かえって、彼らは精神病の正当な治療を受けることもできなくなってしまいます。

こういう仕方で、大多数の、比率からすれば圧倒的多数の、是非善悪の判断を敏感に持っている精神病者に対するひどい差別、いわれのない蔑視がひろまることが、非常に危険なんです。

ファシズムが強くなると、精神病者に対する蔑視が進む、というのも、残念ながら、歴史の法則のようです。

以下、hoshikuzu なりの考え。メディアで注目されるような重要な裁判において数多くの精神鑑定を行ってきた人の発言をなにかで読んだことがある。法医学的見地から、容疑者の脳の画像を撮影してわかることなのだが、明らかに常軌を逸した犯罪の場合(責任能力があるかどうかとは別にして)には、一般的に、脳に一定の器質的な障害を見てとれるのだそうだ。責任能力の有無の客観的な指標になるのかどうか素人の私にはわからないが、もっと注目してよいのではないだろうか。

一方において、脳のスキャンによって予防犯罪に役立てようという発想を、権力に持たれるならば、それはファシズムに繋がるとも考えるのである。

おまえの脳はおかしいので、将来犯罪をおかすかもしれない、よって矯正を受けていただく、そのように言われる事態が気に食わないのである。

考えすぎであろうか?

ともあれ、客観的に脳の異常を見てとって、責任能力の有無を判断できるのであれば、「精神病だから罪を犯すのだ」といった世間の誤解を払しょくできるに違いない。

たとえば、人殺しなどの重い犯罪に限って言えば、重い精神統合失調症の人間のほうが、健常者よりも、犯罪を起こしにくいことが統計的に知られているようだ。精神病者に対する蔑視をなんとか軽減したいものである。つくづくそう思うのだ。