都市牛利の発音方法のゆくえ

都市牛利とは

魏志倭人伝に都市牛利という名をもつ倭人が記されています。当日記でも以前この名前に注目し、都市牛「利」ではなく都市牛「和」ではないかと推察した記事を書きました。「利」と「和」は転写の段階でよく間違われる字だからです。その記事を書いた時点では「和」の音価を「wo」ではないかとも推定しましたが論拠が弱いきらいがありました。もしも「和」を「wo」と読めるのであれば、都市牛和の音価として「ツシコヲ」が考えられ、ひょっとしたらこの人物の本当の名前が「ウツシコヲ」であったかもしれず、これならば倭人名として本当にスッキリしたよくある名前になります。日本書紀古事記になじむ名前なのです。最近になって「和」を「wo」と読めることの傍証になりえるかもしれない事項をみつけましたので以下書いておくこととします。

小倉百人一首冒頭天智天皇御製

まず最初に。小倉百人一首の冒頭に天智天皇御製による以下の歌があります。


秋の田の刈穂の庵の苫を粗み
わが衣手は露に濡れつつ
『あきのたのかりほのいほりのとまをあらみ、わがころもではつゆにぬれつつ』と訓じればよいのでしょう。
この歌がヒントになって「和」と「wo」との関連を知ることができるかもしれません。

日本風土記における天智天皇の歌の音訳

日本風土記という書物があります。1592年ごろ作られたそうです。倭寇に悩まされた明国(中国)で対策のために日本の事情紹介をするために編まれた書物で、そこには日本語の単語、短文、和歌の中国語による音訳が載せられているとのことです。コカコーラを中国でどのように表現したらよいか?それには音訳を使えばよい、可口をもってコカとあてればよい、という方法なのですね。そうした音訳でもってさきほどの天智天皇の歌の倭人による発音が、中国人にどのように聞き取られて音価が書かれたか、日本風土記には以下のようにあります。


阿気那塔那 革里復那一屋那 禿麻和阿頼迷
黄俺過路木鉄尼 紫油尼里漬
少々変だな?と思う音もありますね、現代日本人には。でも、以下の例外の他では明国の当時の人が聞き取った発音をそのまま記していることは間違いないようです。
1:ふたつある尼。最初の尼は「に」の音にあてられていますが、これは恐らく倭人が暗誦していた歌の「は」が「に」に間違って覚えられていたものと考えられます。
2:和。これは、間違いなく「wo」の音を聞き取っているものと考えられるそうです。

なにゆえ和が「wo」なのか

日本語の助詞である「を」の音訳に「和」が使われているのは、音訳にあたって使われた中国語が杭州を中心とする南方音であったためなのだそうです。確かに明国は中国においては南北のうち南の王朝の系統ですね。

都市牛和

16世紀の中国南方音で「和」が「wo」と発音されたとしても、3世紀の魏志倭人でも同様であったとは、ストレートには言えません。でも時代を超えて仮に通用するのであるならば(魏志倭人伝を書いた人物は南の王朝である晋の歴史家なので)都市牛和の読みを「つしこを」としてもさしつかえない蓋然性が出てきます。この人物の名前が倭人にとっては、「鬱色許男」などであったとできれば…倭人伝と記紀の記事との関連性が出てきますから、あるいは従来になく非常に面白い観点であることかと思います。

参考書

当記事には以下をおおいに参考にさせていただきました。
「何でもわかる漢字の知識百科」
森博達先生による説明が非常にわかりやすいのです。

余談

もうひとつ、先生による同書説明を読みながら空想したのですが、pimihoとしか読めないはずの卑弥呼を、pimi + o と考え、倭人が二重母音を嫌うことから、pimi + ho と喉音<暁>母(-h)という摩擦音を追加する習慣が上代倭人にはあったのではないかと…天皇をあらわすおおきみという推定発音をおほきみと書くのであれば実は古代においては本当にそのようにhつきで発音していたと。やがてp音がf音にかわり、さらに現代のように「h」に変化する流れの中で、合成語としての「h」の発音は絶滅していったと…すると卑弥呼は「ぴみ」「お」の合成語で「ぴみほ」と発音したことになります。「卑弥」+「呼」という合成語であったかもしれないという事実は、実は、敵国王の卑弥弓呼もまた、「卑弥」+「弓呼」であったかもしれないという推察を呼びます。そして「弓」は実は…余談が長すぎますから、まとまったら別記する予定です。男にもつかえる卑弥という単語があったのではと。