忘却の淵に沈んだ銅鐸

日本で記録に残っている最古の銅鐸発掘は以下のようなものであったという。天智天皇の時代に崇福寺の建立(近江国志賀郡)にあたって偶然に白い玉状の石が土中からみつかり、さらに掘ってみたところ銅鐸が発見された。天智天皇は新しい都の建設に熱心であったおりでもあり、通常であったらこの銅鐸の発見は瑞なものとして喜ばれてしかるべきであったのだがこれを一切無視したようだ。あるいは、悪いことが起きる前触れとも考えられてかもしれないし、あるいは、そもそも銅鐸がいったいなんなのかをまったく理解していなかったのかもしれない。
いずれにせよ、かつて弥生時代に銅鐸文化の中心であった近畿圏に、大和政権の天智天皇が依拠していたにもかかわらず、掘り出された銅鐸をまったく評価していないこと、これはまったく不思議なことではある。
わずか数百年のうちに忘却の淵に埋まってしまった銅鐸文化の運命を考えるとなにやらゾクゾクする。本当に大和政権の故地は近畿圏にあったのであろうか?天皇家は、かつて外来勢力として近畿圏に進入し銅鐸文化を破壊したものたちの末裔ではなかったのか?おもえば三種の神器はいずれも九州勢力特有の匂いがしてならないものばかりである。
ところで。プロの考古学者が狙って銅鐸を掘り出したことは一度もないという。すごくないですか? 笑ってしまうのは、昭和の世にブルドーザーにのった青年が銅鐸を十数個ブルの後ろにぶらさげて走ったことがあるという。ガランガランと。ただの銅のバケツだと思ったという。新幹線工事のときだったらしい。歴史だなぁ。