たいへんなこと

聖木曜日はミサの原型でもあります。ミサは、イエスのパンとワインを頂く日なのです。マルコ・マタイ・ルカの各福音書では、最後の晩餐において、パンをイエスの肉体であるとし、ワインをイエスの血であるとし、これを頂くことで永遠の生命にあずかることになっています。信仰上、とても大事な日なんです。聖書を読むと、マルコ・マタイ・ルカ各福音書では、最後の晩餐は「パンを裂く日」なのです。実際にイエスがそうしていることを読むことが出来ます。聖木曜日はこのことになぞらえているということになります。

さて、ここにたいへんなことがひとつ出てきます。聖書が一字一句間違いが無い、なぜなら神が霊感を通じて人にかかせているからであるという説がヒックリかえりそうなことがらだからです。

ヨハネ福音書を読むと、不思議なことがわかります。ヨハネだけは、最後の晩餐は、過越しの食事ではなかったとしています。逆に、マルコ・マタイ・ルカの各福音書では、最後の晩餐は過越しの食事であったとしています。どちらが正しいのでしょうか?聖書には誤謬が含まれるのではないでしょうか?

そしてもうひとつ問題が出てきます。実は、過越しの食事においては、酵母をいれて発酵させた通常のパンを食べてはいけないのですね。これは絶対的なルールです。イーストなどの酵母でふっくらしたパンは禁止なのです。これは、モーセが民をひきいて苦難の旅をしていた時のことを思い出すための食事だからです。贅沢は出来ません。過越しの食事においては、小麦を練って焼いただけのパンはクラッカーのようにパリパリとしている固いものなのです。しかも、固くてそもそも手でちぎれませんから、小さめに焼きます。なんとなくおわかりのように、過越しの食事においては、「パンを裂く」ことはありえません。つまり、「パンを裂く」ならば、それは、過越しの食事ではないのです。
マルコ・マタイ・ルカの各福音書では、イエスが「パンを裂く」ことにより、弟子達にイエスの肉体をわけあたえたことになっているのですが、「パンを裂く」ことがありえない過越しの食事であったとも言明しています。要するに内容に矛盾をはらんでいるのです。
一方、ヨハネ福音書では、最後の晩餐においては、この食事は過越しの食事ではないと言明されています。その次の日の食事が過ぎこしの食事であることが明記されているのです。最後の晩餐においては普通のパンを食べていたはずなのです。ところがヨハネによれば、「パンを裂く」ことが書かれていません! イエスがパンをイエスの肉体であり、ワインをイエスの血であると取り分けして弟子達に食べさせた記述がないのです。イエスが裏切り者のイスカリオテのユダにパンをワインに浸して渡した記述があるのみです。「パンを裂く」ことが当然の日であるのに(過越しの食事でない普段の食事では、一番最初に家父長がパンを裂いて家族にパンを与えることが当時の食事のきまりごとでした)イエスがそのことをしていなかったようにみえます。このようにヨハネ福音書には内容矛盾はギリギリないようですが、最後の晩餐として聖木曜日を祝うような聖餐式の原型となるような記述はありません。

以上でわかるとおり、これは重大なこととなってしまいます。もう、聖なる日が木曜日だ水曜日だという以前の問題なのです。マルコ・マタイ・ルカの各福音書ヨハネ福音書との間で過越しの祭りの日と最後の晩餐の日との関係が食い違っているのみならず、マルコ・マタイ・ルカの各福音書においては、過越しの食事であるにもかかわらずパンを裂く行為が書いてあるのです。これが聖木曜日の謎です。この謎は解けません。押さえておきたいことは、聖書には内部矛盾があるということなのです。