追記

しばしば、パンをイエスの体、ワインをイエスの血とする喩えは、食人風習と比較されたりしてきました。そういうものではないでしょう、下種の勘ぐりでしょうと私なんかは思います。 一方、ユダヤの風習として、血を食することは絶対的な律法上の禁忌であることは間違いありません。 たとえ本物の血ではなくワインであったとしても、ユダヤの風習が身に付いている弟子達にとって、イエスから血を飲めと言われることは、ハッキリ言えば、激しく引いてしまうことであったはずです。最初に聖書を読んだ頃の日本人の私にも引いてしまうシーンでした。血なんか飲ませるなよ〜という。ドラキュラかい!とか感じたものです。血を愛飲する民族はいませんでしょうから私が感じた感覚、みなさんも感じるこの感覚は、世界中で普遍の感覚でしょう。ましてや、血食することを禁忌とするユダヤ民族においてはなおさらです。 つまり、ユダヤに住んでいたイエスが、『私の血だ』といって弟子達にワインを飲ませることは、かなり強烈なことなんです。
ぢゃぁここで最近耳にした有力な仮説を。仮説であっても史実に基づくウラがとれている説を。イエスはそんなことしたわけないじゃん仮説。
じゃーん。この「ワイン=血」のイメージを最初にキリスト教に持ち込んだのは聖パウロでした。イエス以前よりギリシャ地方の【魔術】としてワインを血とする【儀式】が広く流布していたらしいのですね、歴史学者がウラをとっているらしい。ローマ市民でありギリシャ文化に造詣の深かったパウロが宗教的熱情をもってキリスト教に「ワイン=血」説をもちこんでしまった…聖書に含まれるパウロ書簡にはたとえば以下のようにあります。ほかにもありますが。


コリント人への手紙第一
10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
実を言うと、パウロ書簡は新約聖書における各福音書よりも成立年代が古いのですね。つまり最初に書かれたことになります。パウロが言いはじめ、それをうけてマルコが福音書に書き込んでしまった、そのように考えられるのです。マタイ・ルカはそれを引き継いでいます。考えてみるとマルコ福音書でも、ユダヤの風習についてよくわかっていない者の目で過越しの食事=最後の晩餐として書かれていたのでした。比較のためにも、もうちょっとヨハネ福音書を読んでいる必要が出てくるかもしれません。ヨハネエルサレム周辺について正確な記述が多いし過越しの食事についても正確に書いていますからね。
それにしても…なんだよ!イエスの血を飲むとかいう奇怪な説の言いだしっぺはパウロかよ!とか私は思いました。人騒がせな、とか思いました。聖餐にあずかることをしないと地獄に行くぜみたいなことをパウロは聖書のどこかで言っているはずですが…まぁいいか。私の中で聖パウロの株は最近下がりっぱなしです。パウロが書簡で残している旧約聖書からの引用はずいぶんと間違いだらけであることが昔から知られていることですし。
三位一体説を強く意識したパウロ神学の影響をあまり受けていない聖書中の書簡って意外と少ないっぽいのですよね。マタイ福音書はマシのほうですし、ヤコブの手紙は非パウロ的ということで有名ですが。ユダの手紙もそうか… そういう書簡だけ大事にする教派がそういえばありますね。エビオン派です。4世紀ごろなくなっちゃいましたけど。三位一体説を受け入れない教派でしたね、確か。このあたりを深く追求していくと異端の道に・・・(苦笑)・・・まあでも、こないだまで私もパウロべったりのルカ福音書が一番読みやすかったんですから・・・