控訴の是非と周囲の理解について

控訴断念と有罪を認めることとは異なる

裁判を継続しがたい止むを得ない事由がある時には、有罪判決を一審で受けた被告人が控訴を断念することがある。そのことをもって、被告人が罪を認めたと判断する人が非常に多いのだと知って驚いた。私には理解できない。これはあってはならないことだ。

このような控訴審の現状を知ると、弁護士としては、あまり、被告人に対して控訴することを勧めることができないことも事実である。

それにもかかわらず、控訴することによって、社会的には、「被告人」というレッテルを貼られたまま、厳しい状況で裁判を闘い続けることが求められるということになる

中略

したがって、被告人本人としては、控訴して勝てる確率と、控訴しないで第1審判決を受け入れた場合のメリットなどを総合的に考慮して、「控訴しない」という結論を出すことは多いにあるうることだと思われる。

そして、その判断は、あくまで本人が、自らが置かれた厳しい状況の中で、最善の結論として決断したものであると考えられるから、第三者がそれについてとやかく言うべきではないと思う。

中略

ただ、実際に有罪判決を受けた者にとっては、上記に述べたような事情の中で、苦渋の選択をしているのだということは、もっと広く知られて良いのではないだろうか。

その意味では、私としては、無罪を争っていた被告人が、有罪判決に対して控訴しないことを、決して批判することはできないし、卑怯でもないと考えている。

控訴はあるのか、メリットはあるのか

仮に、office氏が、〜刑事裁判の控訴審というのは、まず、控訴した側が、控訴趣意書を提出することになっているが、裁判所は控訴趣意書を読んだ時点で、ほぼ、判決の結論を決めており、控訴を棄却するという結論を決めた場合においては、控訴審の第1回の公判だけで結審してしまうことも多くある。〜という日本の司法の悪しき慣例を知っており、また、一審においてoffice氏が提出した、あるいは提出しようとしても受理されなかった多量の弁護用の文書を、一審においてすらそうなのであるから二審においてもまたしかり、と判断したらどうなのだろうか。事実上の門前払いになるやもしれぬ。

これは、多くの被告人やその家族がもっとも驚くところであるが、どんなに膨大な控訴趣意書を提出したり、数多くの証拠を請求していても、第1回の公判で結審する場合には、ほとんどが退けられ、証人尋問も行われない。被告人質問についても、第1審判決以後の事情に限るという形で数十分程度認められるだけである。

その上、仮に第二審に予定されるであろう裁判官の過去の判例を詳しく知ったならば…

しかも、刑事裁判の場合には、多くの場合、どの裁判長に当たるか(すなわち、どの部に当たるか)によって、大体結論が予想される場合がある。厳しい裁判長に当たってしまうと、どんな事件でも有罪判決が覆ることはないということも数多くあるのである。

闘いは厳しく、なんとか最高裁まで持ち込めるかどうかも怪しいとなってくるとかなり考えるのではないか。

文理解釈という名の呪術

一審では法の解釈として文理解釈が取られた。これは現実に存在するシステムの現状には全くそぐわないものである。本来論理解釈が求められるべきものであったが、一審はそのような難しい判断は避けてしまった。論理解釈はoffice氏の弁護の中核をなす要件であるが、せっかくの弁護資料も提出されるだけで裁判官の判断には全く使われなかったと思われる。電子計算機全体にアクセス制御機構が働くというのは夢幻の国の御伽話であるにも関わらずだ。

二審においてツッコンだきちんとした論議が行われれば良いのだが、日本の司法制度には、そのような余力はないかもしれない。立法や行政に牛耳られているからだ。独自の判断など日本国憲法が定まって直後から急速に失われてしまった。三権分立など名目にしかすぎない。皮肉なことに、憲法九条解釈こそ文理解釈で是非行っていただきたいところであるが、いつでも時の権力の意志を認める司法でしかない。九条を前提知識の無い曇った目をしていない小学生に読ませれば誰だって、国家に戦争権はないのだ、軍事力の保持は出来ないのだと悟るだろう。それが文理主義だ。一方、不正アクセス禁止法は法文自体が無茶であいまいなので、システム音痴な裁判官が幼稚な文理主義を掲げればたちどころに立法の精神とは異なる解釈が出てくことになる。その結果、法によって期待されるべき公益は死んでしまう。警察や検察による恣意的な逮捕・立件の意図を司法がおおいに喜び、あえて無茶な判決を出すことがありうるとは思いたくないが、きちんとした論議が行われず最初に結論ありき、という強い印象を持たざるを得ない。だいたい、逮捕以前に警察内部で出回っていた不正アクセス禁止法周辺の指示文書では、アクセス制御は機械にひとつではなかったはずである。このことは、この日記でも過去に書いた。実務的な警察よりもはるかに幼稚な、社会の実態を考慮しない判断を裁判官はしてしまったことになる。これがエセ文理主義だ。だが、はたして二審においてこの文理解釈がくつがえるのだろうか。むしろよりひどくなるのではないか。古来より上級審ほど保守的で頭が固く時代についていけず時の権力に弱いのである。

悲観的なものの見方をしているように聞こえるかも知れないが、office氏は私のような外野席とは異なり、もっともっと現状分析において厳しさを痛感しているだろう。

控訴する力を与えるもの

office氏を支援する目に見える応援はあまり見当たらない。応援がなければoffice氏はたったひとりで闘っていくのだろう。悲観した彼が崩れ落ちれば、控訴断念ということにでもなれば、日本は世界の物笑いであり、IT劣等国になるだろう。悪い喩えだがテレビの映りが悪くても文句の言えない国になるのである。

office氏は個人情報が漏れた件に関しては心底から後悔し反省している。一生の不覚だろう。恐らく今後あらゆる意味でシステムの脆弱性について語ることはないかもしれない。それほどのことだと思う。だからこそもしもoffice氏に闘うモチベーションがあるとするならば、個人情報が漏れた件とは全く別要件である、いわゆる不正アクセスであったという国によるレッテル張りについてだろう。これは彼個人の運命の問題ではなく、この国のシステムが健全に成長していくかどうかの問題だからだ。しかしながら既に社会的制裁を充分に受けたoffice氏に、公益の為にもっと闘って欲しいとは、今の状況では私にはとてもじゃないが言えない。かといってイケニエを差し出してお仕舞いにしたいわけでもない。最悪の気分だ。

控訴する力を与えるものがはたしてあるのだろうか。

仮に控訴断念でも、私は心の底から言ってあげたい。

お疲れ様でした。社会の未来の為にがんばってもらっていて本当にありがとうございました。休息をとって何か力になれるものをみつけましょうよ。今はごゆっくり。


以上は私の勝手な見解です。