利歌彌多弗利

都市牛利について先日書いた折、中国側資料の魏志倭人伝にある「都市牛利」は「都市牛和」の誤写ではないかと推測をたてました。ヤマタイ国の卑弥呼の有力な部下に、「ツシコヲ」なる人物がいたに違いないと。そしてこの人物の本名は「ウツシコヲ」ではないかと。
さて、その後、「利」を「和」と間違えた蓋然性を到底無視できないことを示す別資料があることに気がつきましたのでメモしておきます。隋書倭国伝です。


王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利。

この引用部分の、利歌彌多弗利は、「ワカンドホリ」という、源氏物語にも使われている古語であり、意味としては、「皇室の御血統。皇族」なのでそうです。 すると、上の中国側資料である隋書の引用部分は、≪王の妻を名づけてヒミといい、後宮には六七百人の女がいる。太子は(倭人の言葉では)ワカンドホリと言う。≫という訳になります。

となると、利歌彌多弗利は、本来、「和歌彌多弗利」であったと考えられ、写本を繰り返しているうちに誤って写されたと考えることが、ごくごく自然です。 実は、利歌彌多弗利については謎が多く、多くの仮説が提唱されているのですが、ワカンドホリ説がもっとも信頼性が高く無理のない説明だと思われます。

また、隋書倭国伝には、上記以外にも、和と利とを取り違えてしまったと考えられる箇所が複数ありそうだ、とのことです。

こうしてみますと、魏志倭人伝にある「都市牛利」は「都市牛和」であったかもしれない、という説は、手前勝手な付会にすぎない、とは言えなくなって来たと思います。

以上は、以下の大変に学問的に優れたサイトの記載を参考にしました。

ツシコヲって誰だろう?

というわけでツシコヲをおいかけているうちに、ふと、似た名前があることに気がつきました。 珍彦です。これでウズヒコと読みます。 ウズはどうやら「宝」の意味らしいのですが。

http://kamnavi.jp/log/ikari.htm

もうひとつ、ヤチホコ=「八千矛」なる別名をもった大国主も連想が飛びます。大国主にはまだまだ別名があって、葦原醜男・葦原色許男(あしはらしこのを)、顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま) などがあります。葦原が「ウチ・ウシ・アシ」のことであるとするならば、ウツシコヲの候補として、葦原色許男も充分に資格がありますし、宇都志国玉神もまた、「国玉・神」という美称を取り除くと「宇都志」になりますし、助詞としての「志」を考えますと、宇都志国玉神=宇都の国の宝のカミになりますから、ウツシコヲ=ウツのシコ(力強いの美称)のヲ(勇敢な男)と音韻的に近いかもしれないと思われます。なお、布都斯御魂の斯(シ)は助詞として使われています。

上代において、ウツシコヲという系統の名前がどれほど珍しいのか私には検討がつきませんが、そういった人物のひとりに、魏志倭人伝にある「都市牛利」として登場した有力者がいたとしても不思議ではありません。

布都怒志命

出雲國風土記に出てくる重要な神について、布都怒志命=布都怒・志(助詞)・命と考えると、布都怒という地名がどこかにないのかな?とついつい考えてしまいます。出雲國風土記はずいぶんと魏志倭人伝と時代が離れていますが、魏志倭人伝にある、「華奴蘇・奴」ではなかったかと想像しているのです。 子音において、「K」(華奴蘇)と「H」(布都怒)との差があるのですが。

さて、日本書紀には、「フナト」という地名が出てきます。イザナミノミコトが、根の国におかくれになった奥さんであるイザナミノミコトに会いに行き、そこで奥さんに「見るな」と言われていたにもかかわらず奥さんの姿をみてしまい、その姿の異様さに驚いて不浄なる死の国、根の国から逃げてくるのです。不浄な国から脱出してヒィヒィして清めのためにミソギの儀式を行うのですが、身につけている杖を投げ投げ捨てたると衝立船戸神になったといいます。古事記では並行する部分で、突立来勿所(つきたてくなど)なる神が誕生したとあり、意味は「此処より来るな」と禍を防ぐ神となっています。フナドとクナドの違いが出てきていますが、古来、HとKとは音韻的な変化がありえたと考えられます。なお、クナトであるならば、昔から結界神と考えらており、不浄な地と清浄な地の境界を守護する神と言われています。つまり、船戸は、より昔の原義において、「クナト」であったと考えうるのです。

さて、Hは、その原初的形態において、Kでありえた、ということを考えますと、布都怒=「フツヌ」は、より古い形態として「クツヌ」でもありえたと…とも考えられるのです。8世紀の出雲国風土記における布都怒よりも昔の形態として「K」ではじまるなんらかの発音の名詞が、3世紀の魏志倭人伝の時代にあっても不思議ではありません。

その証拠らしきものが、実はあるのです。

ほかならぬ出雲国風土記において、布波能母遅久奴須奴:フハノモヂクヌスヌ神がいます。 すでに招待がわかっている布波能母遅部分(神社に名前があります)を除くとクヌスヌ神です。 魏志倭人伝の華奴蘇奴(読みはカヌソヌか?)に極めて近いのです。

また、同じく、出雲国風土記における極めて重要な国産み神話に関連する布怒豆怒:フノヅノ神も注目です。布怒豆怒と華奴蘇奴とは、極めて近いとしか言いようがありません。

布怒豆を船戸と読んだ日本書紀と、布怒豆をクナトと読んだ古事記とがある、とも考えられます。

出雲に隣接した冥界・根の国にいましますイザナミノミコトから逃げ帰ったイザナギノミコトが、脱出した直後に結界=境界である「クナト」を意識したとするならば、「クナト」は出雲圏内であることでしょう。いえ、むしろ、「クナト」=「カヌソ」と考える私見からすると、議事倭人伝の時代の華奴蘇という地名の由来譚として、イザナギノミコトのミソギ伝説が生じたと考えられることでしょう。

かくして、日本書記、古事記出雲国風土記の神話を総合して、華奴蘇が出雲のとある地方の名前であったかもしれないという蓋然性を主張できるのではと思った次第です。

なお、華奴蘇奴と華奴蘇の違いを明らかにしておきます。通説においてですが、華奴蘇奴の最後の文字の「奴」は、古代において、「野」を表わし、領域の意味を持ちます。華奴蘇奴は華奴蘇のクニ、と考えてよいでしょう。「野」は、「根」とも通じ、古代の日本語において「土」に通ずるコトバなのです。魏志倭人伝には、「奴」で終わる国名が頻出しますが、ほとんどが、「奴」=「クニ」として考えてよいと思われます。

華奴蘇奴が出雲の地にあったとすれば、倭人伝の「狗奴国」はその南方にアリと倭人伝に明確に書かれているものと私は信じます。 山陽地方から四国にわたっての3どこかですが…他の文章からみてズバリ四国にあったと考えています。 ヤマタイ国は恐らく南九州でしょう。

私見ですが狗奴国が邪馬台国の南にあるとは、倭人伝は言っていません。書いてありません。


女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。

その南の狗奴國とありますが、その南の「その」とは、女王國より以北にあり、遠絶なるところの、その余の某國(複数)を指します。これらが出雲を含む中国地方を主として含むと考えるならば、狗奴國は明確に四国地方を指します。


女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、

女王国を南九州と考えれば、ちょうど海を渡る千余里の東の場所に、つまり四国に、狗奴國があります。

これは、

自女王國東度海千餘里至拘奴國
とある後漢書とも合致しています。
通説では、魏志倭人伝後漢書における拘奴國の場所について齟齬があると解されます。倭人伝では女王国の南に拘奴國があると、ヤマタイ九州説でもヤマタイ畿内説でも主張されています。一方において、後漢書では東にあると。これは矛盾であると。どうせ後漢書はイイカゲンに書いたのであろうと、こういう風に通説では論じられているわけです。
ですが、私の説では、後漢書魏志倭人も正しく、両者は一致しているのです。魏志倭人伝その南に狗奴國有り。その南とはなんなのか。これが私の仮説のポイントです。

長くなりました。布都怒志命からはじまって、華奴蘇奴國の場所が出雲でありえることを論じ、したがって女王国の属国であった傍国が主に中国地方であること、したがって狗奴が四国であってもいいこと、これが後漢書魏志倭人伝に矛盾しないこと、この条件を満たしているのがヤマタイ国=南九州であること、以上を書いてみました。