ヤマタイ国の位置について仮説::水行十日陸行一月

陸行一月

最近睡眠不足ぎみなので、夜、床についてから邪馬台国関連の書籍を読むことにしています。そうするとアーラ不思議、いつのまにか寝てしまうからです。たぶん、読んでいる内容が私には難解すぎるからでしょうね。
そんな昨夜、寝床の中にて…研究家達にしばしば検討課題として挙げられている、魏志倭人伝の「南至邪馬台国、女王乃所都、水行十日陸行一月」に含まれる【陸行一月】の解釈について、諸先生諸先輩の皆さんがたが唱えている諸処の説とは異なる解釈がありうると気がつきました。私のことですからどうせすぐに忘れてしまいかねませんので自分のためにメモしておきます。

長距離

陸行を一月というのは、邪馬台国の所在が畿内大和であっても九州であっても、いささか長距離すぎるという認識があるようです。陸行の出発点がどこであるかについては諸説がありますがいずれにせよ、一月歩くというのは並大抵ではありません。このため、いろいろな立場のうち、ひとつの派では、これを「陸行一【日】」の誤植であろうかと推理したりします。あるいは、大和説であるならば、瀬戸内海航路に従うならば、河内湾(大阪湾)上陸後にヤマトまで一月もかからないという難題があるわけです。このため大和説方面では、日本海側の航路で出雲経由で水行後、近畿地方日本海側のどこかで上陸した後、どうにかこうにか畿内ヤマトまで歩くのだ、という説もあります。日本海側を航行することは、たとえ季節が夏であっても波が高く危険度は瀬戸内海経由にくらべて厳しいこと、上陸後1ヶ月も歩かなくてはいけない理由がよくわからないこと、などから私には信じられません。それに後世の外交では瀬戸内海経由を使っています。そうすると上陸後1ヶ月も歩くのは少々問題です。 一方、九州説であっても一ヶ月も歩くとはどういうことなのか、明快な答えはなかなかないように個人的には感じています。

日本海ルート従来説(邪馬台国=ヤマト説)

出雲(投馬国)に寄港した後、敦賀に上陸、近江(滋賀県)・山城(京都府南部)を経て大和にはいることで陸行一月とみる説があります。
延喜式』「主計上」の規定では、敦賀に近い若狭は小浜市(当時国府がありました)から平安京京都府)まで、税を積荷にした行程で三日かかることになっています。このていで行けば、大和まで1ヶ月かかると思えません。

瀬戸内海ルート従来説(邪馬台国=ヤマト説)

倭人伝の「陸行一月」は「陸行一日」の誤記であるという説。大阪湾にはいって当時水面下にあった河内平野(つまり河内湖)を水行し、生駒山麓付近で上陸、ここより歩いて陸行にて一日で大和にはいったとする説。これ、本当に一日でつきますかね?山越えで荷物があって、倭人伝には「牛馬なし」なので、、、万葉集などから裏をとれるかもしれませんけれども。
全国規模の支配領域を持った大和の邪馬台国の都がどこにあったのか見当つきかねますが、生駒の峠を下ってすぐの地、大阪の海岸線から宮城まで一日行程でたどりつける場所に本当にあったのでしょうか? せめて陸行二日ぐらいであったならこの解釈に安心できます。
確かに倭人伝原文の「陸行一月」を「一日」の誤記・誤写であると見ることは、可能かもしれません。しかし、もしも、原文の通りでも良いかもしれない解釈がありうるのなら、それにこしたことはありません。

唐六典による従来説

榎学説。
1943年、藤田元春が『唐六典』において、「陸行での換算では一日50里進む」という指摘を行いました。すなわち、陸行30日では1500里ということになります。榎一雄はこれを受け、「水行10日陸行一月」を「伊都国から、水行ならば10日の道のり、陸行ならば一月」というOR条件であると読み解き、かずある邪馬台国九州説のなかでも最も有名な解釈のひとつを生み出しました。
唐の時代の文書を元に考え抜かれた学説ですが、いかんせん、倭人伝作者の陳寿は唐よりもかなり前の人ですし、その頃の中国の里についての考え方が唐の時代の考え方と一致していることをアテにしなくてはいけません。

私説による新仮説「水行十日陸行千余里」説

唐六典という陳寿にとっての未来の文書から里数を換算するのではなく、陳寿が明らかに参考にしたであろう、『漢書』から考えてみることが可能でしょう。

漢書』「西域伝」によれば、難兜国→ケイ賓国が、330里とあります。 一方、ちょっとだけ離れた別の箇所に、ケイ賓国→難兜国が、9日行、とあります。 方向は逆ですが、ふたつの国の間の距離を、かたや里数、かたや日数で書いてあるのです。 このことから、邪馬台国の時代=三国史の時代に先行する漢の時代についての歴史書が、三日=110里と考えていたことがわかります。陳寿漢書西域伝をおおいに参考にして魏志東夷伝倭人条を書いたことが別途明らかになっていますので、里数と日数の換算については、私たちには、この、三日=110里をアテにすることに合理的な理由があります。

陳寿は、倭人伝を書くに当たって、政府が保管していた外交文書をひもとくことが可能であったと推論されています。その元文書において、私達は、「水行十日陸行千余里」とあったであろうと仮説を立ててみることが可能でしょう。倭人伝全体を通して、およそ陸行で里数が書いてないのはこの「水行十日陸行一月」だけです。元文書は、おそらく、地政学的な報告(つまり、倭人が呉と組んで、魏に逆らったときに、軍事的に制圧可能であるための各種データを含む)報告でもあったと考えられますから、陸行のデータは全て軍事的な作戦が立てやすいように里数で書いてあったと考えられます。いつの世も技術文書はそんなもんです。ですから、「水行十日陸行千余里」などというふうに、里数でもって元文書に書いてあったほうが自然です。

倭人伝の邪馬台国=女王の都する所までの道のりはまっすぐに懸命にまとめていますがその他の傍らの国に関する地理案内はいいかげんであることからも、電撃的軍事的進行で女王の都を制圧するつもりが読み取れます。また、その他の記述も、軍船を作ることが可能か(黄海を渡って呉を攻める)、食料や衣服などの兵站供給は可能か、倭人を組織してある程度兵力にすることを考えるための人口調査なども盛られています。

さて、「陸行千余里」は、先に調べておいた『漢書』の換算では、おおむね「陸行一月」です。陳寿は、晋の時代の人ですから、当然ながら中国での標準里でもって考えたに違いありません。しかし、元の外交文書に載っていた「千余里」は、いわゆる「短里」でした。このことを陳寿は知りえませんでした。これはしかたがありません。時代も地域も違うのですから。それに、陳寿にしてみれば、「水行十日陸行千余里」は、美文ではなかったのです。歴史書を書くのだという意気込みがあったのでしょう、美しい構造を持つ「水行十日陸行一月」の言い回しに変換してしまったのです。漢の時代の標準里換算でもって、朝鮮半島南部と倭の地域の短里を日数に換算してしまったため、邪馬台国までの道中の陸行が本来よりもひどく長いものになってしまいました。
このことが、現代において、邪馬台国の存在した場所が不明になることの大きな要因になっていると考えられます。

なお、千余里は、末浦から伊都国までの陸行500里の2倍ほどでしょう。

以上の考察は、邪馬台国畿内大和であっても九州であっても成立しうる仮説です。以前から個人的には、邪馬台国は南九州にあったと考えていますが・・・はてはて?