ではでは、それでは、さようなら、さらばじゃ、あばよ

二重表現の禁止

さすがに「頭痛が痛い」とは絶対言いませんけれども、うっかりすると「はげしい激痛」と言いかねません。もちろんこれは間違った表現です。「はげしい痛み」か「激痛」ならば普通の表現でしょう。機械による言語翻訳はこのへんをクリアすることが難しいだろうなぁと想像してみたりしますけれども、言葉を使う者は「激しい激痛」という表現が何かおかしいという感覚を持っています。感覚のない機械に処理させるには、禁止則のデータベースを検索させるしかないのでしょう、おそらく。「はげしい」と「激痛」とに、同じ意味あいを備える言語要素があることを、人間は直観で処理します。そして何か変だと思うのです。

ところで、お別れの言葉として使われる「それでは、さようなら」というのはいかがでしょうか。おかしいと感じる頭脳を私達は持ち合わせているでしょうか?何か変だと感じますか?

お別れの言葉が変

「では。」「じゃぁね。」は「それでは」、「それじゃぁね」の短縮形でしょう。これらは「それでは」族の言葉です。ところがですね結論を先に言えば、よくよく考えて見ますと「さようなら」もやはり「それでは」族の言葉です。「それでは」族の言葉を2回重ねるのは本来おかしいはず、即ち「それでは、さようなら」という表現も本来おかしいはずです。

「さようなら」は、「さよう」+「なら」です。漢字まじりで書くと「左様」+「なら」です。この表現の本質において、【今まさに別離の状況があることを互いに理解している】ことを確認する合言葉なのです。

ほのかに互いを慕いあう武士と町娘が偶然縁日で出会います。娘は飴細工を売っています。武士と娘は遠くから目立たぬように見つめあい、武士は誰にもそれと気がつかれぬように近寄り飴細工を眺めます。「このような美しい飴細工にかような所で出会えるとはのぉ」「…お武家様にはもったいのうございます。このような下賎な菓子など」「いやいや、天気が良くてよかった。おや、そういえばそろそろ八つか、それでは。」「…ありがとうございました。」

武士が名残惜しさを顔に出したかどうかわかりませんが、「それでは」という言葉を使いました。「それ」+「では」とはどのようなニュアンスでしょうか。「それ」とは何ですか?「では」とは何ですか?

私の脳の言語処理は武士の発言の「それ」の解釈として「あめざいくで思い出した、もうやつどきか、おやつの時間だ、所用もあるのでここを去らねばならぬ。」等の状況を連想します。そしてそのことを武士が娘に伝えているのだと感じます。この伝えるべき静的状況が「それ」なのです。そして「では」は、「それ」という静的状況を鑑みて能動的行動をとらねばならぬことを示唆する接続となっています。

「それでは」族の言葉は、全てこのような属性を持っていると考えられます。さきほどは、「さようなら」=「左様」+「なら」もまた、「それでは」族であると言いました。「左様」が静的な状況を表し「なら」が能動的行動への展開を示唆しています。

他に言葉を捜して見ますと、「さらばじゃ」という表現を思い出しました。「じゃ」はくっついた言葉ですから取り除きますと「さらば」が残ります。これは「さ」+「あらば」と分解できます。「さ」は文語的表現、あるいは古語の名残でしょうか、現代語では「そう」あるいは「それ」に相当することでしょう。能動展開としては「あらば」を使っています。

ここで能動展開を並べて見ます。

  • 「では」
  • 「なら」
  • 「あらば」

これらの能動展開は他で「そうでは」「そうなら」「そうならば」という使い方が出来るでしょう。多少ニュアンスが違いますが、まさしく静的状況を能動的行動に展開する条件と行動の対応付けを表す能力があると言えます。「そうでは」駄目だ、「そうなら」さっさとしろよ、「そうならば」次は右、等等。

ここまでの論でわかってきたところでは、別れなければならない状況となっている【静的状況】を相手に伝え確認を求め【能動的行動】への展開点としているところが、お別れの言葉の共通項として浮かび上がって来ます。

ここでちょっと考えてみます。【静的状況】の提示確認と【能動的行動】への展開のスキームは、いくらでも他にあることでしょう。なにゆえ、お別れの言葉のスキームの中でのみ定着し慣用となって次第には原義すら忘れ去られているのでしょうか。私達はお別れの言葉の原義を忘れて日常的に使用しています。「それでは、さようなら」は二重表現ですから「頭痛が痛い」「暗い闇夜」と同じほどに陳腐であるはずですが、原義を忘れているが故に私達は「それでは、さようなら」を変だと感じないのです。

話を戻します。【静的状況】の【能動的行動】への接続が別離にのみ使われることの不思議さは、案外と理性では割り切れるものではないかもしれません。先祖代々使われている日本語表現の中の特定スキームが、多種多様な発音の言葉に分岐した表現を持ち続けていること、とても不思議であるとしかいいようがありません。

思うにたったひとつだけ理由があるような気が致します。私達のお別れの言葉は【状況】と【接続】でした。実は【能動的な表現そのもの】の言及を回避しているのです。「もうおやつのじかんだ」「であるから………」(いわなくともわかるでしょうけれどもこれからかくかくしかじかの別々の行動を取ります。)この言及の回避こそが別れることのそこはかとない苦しみを【あえて】言わないことだったりします。言わないことで別離の苦しみを共感しているのかもしれません。心の奥底で。表に出すことなく。そしてこのことが、【静的状況】の【能動的行動】への接続というスキームが他の慣用表現で使われずに、別離の表現に特定されてしまうことの主因ではないかと思われてならないのです。私達は沈黙をもって名残惜しむ文化の中に生きているのです。

エレベータを降りる客

エレベータガールがいないエレベータ。1階で客が多数乗るが満員というほどでもない。やや息苦しいか。3階で止まる。ドアが開く。入り口から最も遠いところにいたひとりの客が降りるために身じろぎする。すると周囲の人間は黙って道をあける。その道をあける所作はさざなみのように広がり、無事に客は降りた。ドアが閉まる。エレべータは再び昇っていく。

日本で外国人が上のような状況に出会うとカルチャーショックを感じるそうだ。日本人はテレパシーが使えるのかと。「降りたいから通してくれ」と何故言わない?言われなくとも気がついて道をあけるのは何故だ?「通してくれ」と言うのは、よほど満員で道をあける所作のさざなみのスピードが遅いか、人間同士の圧が高いと有効ではないのであるが、その時だけだろうと。

言わずともわかるだろう、という共感覚は、特に日本人の文化において目立つようです。日本人が特有とする腹芸文化は時に理解されがたいことも多くあるようですが、これにも関連しているのでしょうか。ディベートがヘタであるという文化にも関わってくるかもしれません。しっかりハッキリものを言う人間はつきあいずらいとされることが多く見られるような気も致します。

あばよ

「あばよ」という別れの表現があります。GOOのサイトにある辞書で調べると〔「さあらばよ」「さらばよ」のつづまったもの〕別れの挨拶(あいさつ)の言葉。「さようなら」よりくだけた言い方。とあります。なるほど。これもまた「それでは」族の言葉だったのですね。

ローマ字の書き方を研究したヘボンは、(旅券などで使われるヘボン式のローマ字綴りは彼の発案です)「あばよ」について面白いことを書き残しています。ヘボンは外国人の為の和英辞典を作っているのです。「和英語林集成」といいます。その辞書の中で、「あばよ」について以下のように書いてあるとのことです。

ABAYO アハヨ Good bye (used only to children)

元々は「あばよ」は幼児語であり、それを周囲の大人が子供に向かって使う、そのような意味でしょう。非常に興味深いですね。どの辞書かは不明なのですけれど、「さよ(う)ならの口頭語的表現(もとは幼児語)」とする辞書もあるとのことです。

「あばよ」の、このへんの事情が詳しくのっているページがありますのでご紹介しておきます。ヘボンについての詳細もわかりかなり楽しめます。

ヘボンがヘップバーンの訛りであることは私も前から知っていましたが、いきさつがわかって愉快でした。ローマ字表記のヘボン式をこのさい「ヘップバーン」式としたらどうでしょうか。でも天国にいるヘボンさんはこう言って笑うでしょう。『私の名前は美国平文です。』

付記

上で書いた【状況】+【展開】説が既に学説になっているかどうか私は全く知りません。ただ思いついただけです。識者の方から誤りその他をご教示頂ければ幸いです。

といいますか、今日、ヘボンとヘップバーンの関係を調べていたら「さよなら」言葉のほうが面白くなってしまって思い付きを書いてみただけなのです。与太ですね。

TYPE属性とXSS脆弱性対策

属性とXSS脆弱性

CGIやwebアプリケーション等でHTMLの出力時にsrc属性やhref属性、style属性等をしっかりサニタイズして下さいよ、というお話はXSS対策として有名だと思います。

ところが、Presentations & Teaching / Vorträge & Lehreのページにある、Attacks against Web Applications(PDF)というPDF文書の84ページを見たら次のように書いてありました。

Dangerous Attributes
  • STYLE
  • SRC
  • HREF
  • TYPE

ΩΩ Ω <な、なんだってぇぇぇぇ

type属性とXSS脆弱性

私としては自分の不明を何度も恥じる人生なのですが、今度も驚きました。type属性については私は過去に注意を払ったことがないのです。

いったいどの要素のtype属性なのか見当もつきません。また、type属性を出力してしまうCGIってどのようなものなのかもわかりません。style属性の出力をなにげに禁止しているwebアプリケーションはいっぱい見ます。例えばはてなダイアリーの編集だってそうです。style要素をしっかり管理、style属性は禁止、がはてなダイアリーXSS対策のポリシーの柱です。でもtype属性があぶないなんて言う話は私は聞いたことも見たこともありません。

しいて言えば、例えばstyle要素の記述を許しているのだけれども、そのstyle要素のtype属性をtext/javascriptな感じにしてしまうとJavaScriptが動くブラウザがある(あったよ)、というぐらいなのです。ですが、上記のPDFのスライドの順番を見ると、直前にまず、危険な要素の一覧を挙げているのです。その中にstyle要素も当然はいっています。その直後にtitle属性が危険だよと書いてあるページがあるのですね。なにか腑に落ちないといいますか。

type属性を、style属性、href属性、href属性と並列同格においていることから考えますと、どうもtype属性でもってURIを指定できて、その上に、そのURIJavaScriptスキームである、などという事例があってもよさそうなものです。ULやOLの要素でのtype属性がある意味スタイルを規定していることを思い出したので、そのスタイルからJavaScriptを起動できるのかと焦りまくりましてさきほどちょっとTESTしたのですが良くわかりません。

だいたいURIを記述できるようなtype属性知らないです、私。思い余ってさっきのPDFを作った人にメールでも出すかもしれません。なにか変なブラウザでもあるのかなぁ……

どなたかご教示下さい。気持ち悪くてしょうがないです。

本日先輩から某所で聞いた笑い話

問題と誤答1

有名な小説の書き出しである。空欄(a)と(b)を埋めなさい。
我輩は(a)である。(b)はまだ無い。

問題と誤答2

問:あてはまることばをいれなさい。
「友人を見送るわたしの(  )に熱いものがこみ上げてきた。」
答:しり

我慢しすぎ。