■匿名性を取り締まること

匿名そのものがターゲットになっているとyomoyomoさんもご指摘

5月15日に■ハンドルネームあるいは匿名ということで書いたことに関連してyomoyomoさんがイイコト仰っているので付記しておきます。心強いので。引用元は、http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20040517#p3です。

まずは相手側の立場で考えないといけないわけだが、警察が何を狙い撃とうとしているのかというと、それは「(インターネットの)匿名性」ではないか。この点が他の P2P ソフトウェアと Winny を分かつポイントでもある。実はこのところは某氏の受け売りなのだが、これを分かっている人が少ないのが意外である。というか、その点についての意識がないとまずいと思う。このあたりはマスメディアも実に鈍感、というか悪く言えば警察と共犯関係といえる。

そういうことです。マスメディアは良く考えないと自分の首を締めていることに気がつかずいつしか自分が死んでいるのを見て驚く事になりますよ。

■自由意志:ゲーム:神の存在証明

自由意志の否定への反駁

とある掲示板で自由意志の存在を否定する哲学的な論証があり、反駁の為私は素朴な実在論の立場に立脚して、初期プロテスタントの指導者がやはり自由意志の存在の否定を唱えながらも信仰に殉じて生きながらにして火刑の罰に甘んじて従った歴史的な事例を取り上げました。自由意志を否定しながらも神への信仰を選ぶってなにごとですか?と暗に批判してみせたのですが。

自由意志の否定そのものは反駁の余地もなく肯定の余地もなく不可知論に陥るおそれがあります。この性質を持っていわゆるトンデモとレッテルを貼ることも出来ましょう。頑なな信念に対応することは論理をもってして不可能なことはしばしばあるのです。

ゲーム

ゲームにおける人の創発性について先程思い浮かびました。

既に過去の話ですが、チェッカーというゲーム(主にチェスの盤を日本で買うとオマケについてくる駒を使って遊ぶゲームです。相手の駒を飛び越すとその駒を接収できる出来るルールで、殲滅戦です。)がありまして、実は、このチェッカーなるゲーム、とっくの昔に人間はコンピュータに勝てなくなっているのです。ロシアではアイスクリームを食べながらプレイする、まだ庶民に人気のある遊戯なのですけれどね。

似た名前ですが全然違うゲーム、チェスについては、すいぶん前に往時の世界チャンピオンが、ディープなんたらという名前のついたコンピュータとほぼほぼ五分の闘いになってしまって物議を醸したことがあります。なお、日本の将棋では、コンピュータの将棋指しはそのへんの素人には、大概勝つようになっています。とは言え、ゲームの奥深さゆえ、アマチュア高段者はコンピュータになかなか負けませんしプロなら絶対負けないでしょう。でも、例えば手が限られてくる終盤の寄せ、詰めの段階では、コンピュータの全件読みに人間の知力がかなわないケースだってあるのです。

詰め将棋の面白さ、美しさを感じ取る才能は人間に特有のものです。コンピュータにはわかりません。今のところは。はたしてそこまで理解できるコンピュータがあわられるかどうかについては私は深く懐疑的です。今のところ、詰め将棋を出題者は、自分の感性で問題を作り万が一の為にコンピュータを使うことはあるそうです。しかし、それは人間が感じる美に機械的な不具合がないことを証明する手段に過ぎません。

計算量

ここで多項式計算量というコトバを使ってみます。学術的には他のコトバがあるのですが、まぁおいておきましょう。演算の範囲の大きさに対して演算量が指数関数的に発散しなければヨシといった感覚を多項式計算量ですむ、と言います。一方において多項式計算量では解けない問題がああるとか言うしっかりした学問的な分析もあるようです。イイカゲンなことをあえて言うと、要は、宇宙が終わってしまうほどの長い計算をしても結論が出ない問題がありますよ、どうしますか?みたいなオハナシ。そういうのはコンピュータでは実質解けない。でも多項式計算量ですむなら概ね解けそうだ、みたいなもんですか。計算の元となる複雑さがN程度のときに、たとえば計算量がNの3乗ならばそれは多項式計算量(Nの3次式)ですんでいるわけで、たぶんコンピュータの演算速度が充分ならば解けるのです。

チェス

世界チャンピオンを負かすようなコンピュータでも特定の局面ではまず間違いなく、負けてしまうかあるいは勝てない答えを出すことがあります。ところが、ちょっとチェスを楽しんだ人ならば容易に負けない方法、正解を出せる局面があります。これなどは、実に不思議です。読みきったわけでもなんでもない、考えればアタリマエのことを人間ならば思いつきますがコンピュータにはわからないでのです。私はこれを計算不可能な創発性と呼びます。

計算機科学において計算量を考える局面は、(たとえばチューリングマシンを考えて)発達しています。だからこそ、暗号解読にかかる時間の評価もなされているわけです。計算機がN倍速くなったところで、たちうちできないような(非多項式な計算量を要求する)問題は確かにあるのです。

これらの計算量の把握にはロジック(アルゴリズム)のループ性、回帰性を把握する必要があるのですが、非常に興味深いことに、チューリングマシンに備わっていないある種の特権的な関数を呼び出すことが出来たらどうなのだろう、と言った考証もなされるようです。一種イタコみたいな関数です。CHOICE関数とここでは名前をつけておきましょう。ロジックにおいて場合わけをしてしらみつぶしに順番に探索する分岐が必要になったときに、CHOICE関数は、かならず、探索の1回目に正解をみつけることが出来るのです。ものすごい関数ですね。

で、この特権的なCHOICE関数を実装しているコンピュータならばどれほどの性能が出るのだろうか、という論議をしてみたりするわけです。

直観

無論、CHOICE関数は機械の上では実在しません。さきに述べたような、チェスの特定の局面で人間にとってはごくごく簡単な正解をコンピュータが発見することが非常に困難です。機械にはCHOICEできないのです。おそらく「気合のはいった手ですね」という感想もコンピュータは持たないでしょう。私はここに人間の頭脳の創発性をかいまみるのです。直観ですね。計算機科学を保守的に見た場合、CHOICE関数などありえませんので、コンピュータは永遠に人間を凌駕することはありません。

自由意志

自由意志否定論者は、環境により私達の頭脳はほぼ自動的に解を計算すると言います。私達の行動は環境による演算結果であり、頭脳のプログラムと初期条件が決まっていれば解=行動も決まってくると言うのです。(確率的、あるいは統計的な行動も含みます)

私は、創発姓、あるいは、CHOICE関数の魔法の手によって、人間は自由意志を行使してるものとみなしています。それゆえ、人間は環境のみに縛られません。

私はいかなる意味でも宗教者ではありませんが、自由意志の存在基盤に非常に興味があります。人間が物質の機械であり、すべてがオートマトンであるような存在ではないことを期待しています。私達はロボットではなく、本質的に自由な存在であるべきです。

どういうわけだか、私は、この自由意志の存在基盤に、神の意志を感じるのです。私達は、エデンにおいて、神から多大な自由を獲得したに違いありません。極めておおきな権力を有してこの宇宙に君臨しているのです。自由の使い方は間違っていますけれどね。(ーー)

以上、タワゴトです。誤字脱字、意味不明ご容赦願います。でもワリト切実な問題なのです、ワタシにとっては。

たわごとを書き連ねる事をお許しください。今のところ、物理学で発見されている基礎方程式は、全て初期条件が確定すれば未来永劫まで原理的には予言できる仕組みになっており、決定論の結論しか出てきません。アインシュタインが看破したようにね。ええっと、量子力学が人間の自由意志の説明になっているというコペンハーゲン学派の考えは、まゆつばです。系の状態関数は、時間に関する線形な微分方程式にのっちゃっています。ゆえに決定論。観測理論はまだまだ全然解決していませんが、そもそも決定論の方程式から数学的に自由意志をひねり出せると考える事がおかしいのです。なにか方向を間違っていると思われますヨ。ロジャー・ペ ンローズの提唱をもっと真剣に考えて欲しいなぁ。