松永英明氏へ。中観学派の空も唯識学派の唯識論も捨てたらいかがでしょうか

皆さんへの御注意

本日は松永英明さん宛ての文書となっています。読み飛ばして頂いて結構です。

原始仏教関連メモ

そうした人々が、ゴータマ・ブッダが輪廻説を否定したはずだとするさいに必ずといってよいほど根拠にするのは、ゴータマ・ブッダは無我説を説いたから、というものである。我(アッタン、アートマン、自己)は輪廻する常住不変の主体とされるから、我がないのであれば、輪廻もありえない、と彼らは考える。

ゴータマ・ブッダが説いたのは無我説ではなく非我説(心身のどの要素も常住不変の自己ではないとする説)だということは、故中村元博士が強く主張したところでもあるが、最近ではわたくしが拙著『ブッダが考えたこと----これが最初の仏教だ』(春秋社、二〇〇四年)で力説したし、またわたくしの畏友、石飛道子氏がその著『ブッダの論理学』(講談社、二〇〇五年)で論理的に明快に論断したところでもある。

さらに、因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることであるから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければならない。この主体こそが自己(アッタン、アートマン、我)である。 したがって、輪廻説を認めない人々が、その根拠に(ゴータマ・ブッダが説かなかった)無我説を持ってくるのは、当然の成り行きといえる。すると、輪廻説を認めない人々は、倫理的な主体を認めないのであるから、必然的に因果論を認めないことになる。ここまで来ると、そういう人々が構想する仏教は、人を倫理的な方向に導くという重要な視点をまったく欠くものであることになる。

釈尊は、十難無記というように、いわゆる形而上学的な質問に沈黙して答えることがなかったことが、サンジャヤと共通しているといわれることが多い。確かに釈尊は、サンジャヤの姿勢を参照したかもしれないが、みずからの実存を踏まえた透徹した経験論の立場からそれを巧みに換骨奪胎したと考えられる。

釈尊は、経験的な事実を出発点としない議論への関与を拒否したが、経験的な事実に関わる因果論(縁起説)についてはまことに雄弁きわまりなかった。だからこそ、仏弟子アッサジが、釈尊は因果を説くと語ったのを聞いて、サンジャヤの弟子の筆頭格であるサーリプッタとモッガッラーナが、そして彼らを追ってサンジャヤの徒二百五十人が、サンジャヤを捨てて一斉に釈尊の弟子となったのである。

釈尊が舎衛国の祇園精舎におられたときのことである。鬘童子という者にこういう思いが生じた。「もし世界が常住であるとか、常住でないとか、世界に限りがあるとか、限りがないとか、生命と身体は同一であるとか、異なるとか、如来の死後はあるとか、ないとか、それとも有ってないとか、有るのでもなくないのでもないとか、はっきりとこれは正しい、これは間違っていると説いてもらえると修行もしやすいのだが」と。そこでこれを釈尊に申し上げると、これを叱って、次のように説かれた。

もしそんなことに思い煩っていると、その結論を得る前に命終ってしまうだろう。それは例えばこのようなものだ。ある人が毒矢を射られて苦しんでいるとしよう。そこで親族は医者を呼んだ。しかしその人のいうよう。まだ矢を抜いていけない。この矢を射たのは何という名で、カーストは何で、弓の材料、矢の材料、その色、弓矢を作った職人の名、生まれ、年格好などが判らないうちはと。そうこうしているうちにその人は死んでしまった。

このように世界は常住か常住でないかと議論しているうちにも、苦しみはいよいよ大きくなる一方であるから、私はこういう議論に答えることをしない。これは仏教の教えにも相応しないし、修行にも役に立たない。私がはっきりと説くのは、今私達は苦しみのなかにあり、その原因は自分本意な煩悩であって、これを滅することができればそれが悟りである。したがって自分本意の考えを捨てた正しい信念を確立しなければならないという、四諦の教えである。これを聞いて諸々の比丘たちは喜び、かつ実行した。

このように聞きました。釈尊が舎衛国の祇園精舎におられたときのことです。そのとき釈尊は諸々の比丘に対して次のように説かれました。三福の業がある。布施と平等と思惟である。沙門バラモンや貧困者に惜しみなく、食べ物・衣服・医薬・宿泊所などによって便宜を与える、これを布施といい、殺さず、盗まず、優しい言葉で人を傷つけず、嘘をいわず、誰にでも慈悲の心で接する、これを平等といい、心に止めて忘れず、真偽を弁別し、喜び、安らかで、落ち着き、片寄らない、これを思惟という。これら布施と平等と思惟の三は智者の行うところであり、現世においては善い報いを受け、死んでは天に生まれる、と。そこで諸々の比丘たちはこれを聞いて喜び、そのとおりに実行した。(増一阿含経、巻12、三宝品第21−3経)

私見&私信

空について、あるいは、唯識論について、精緻な思考を重ね、その理論に基づいて生活すること、ひょっとしたら無駄ではないかと思うのです。釈尊の無記の精神に反します。キリスト教における煩瑣哲学と同様に仏教においても中観学派や唯識学派が難しいものを持ち込んでしまった、そのように考えています。頭の先っちょで考える難しいことや、その考えによって行う修行は不要ではないでしょうか。

大乗仏教においては、原始仏教成立以前の修行様式や秘儀や神秘や因習が多量に取り込まれていますのでかなり複雑なものになっています。たとえば、ヨガと釈尊の瞑想は異なります。チャクラがどうとか釈尊には無関係です。馬鹿みたいですがバラモン教までも紛れ込んでいます。密教に。江戸時代には日本では葬式仏教となってしまいました。禅宗のお葬式でなにやらわけのわからないマジナイをしているのをこの目で見て、かなり愕然とした経験があります。釈尊から遠く離れていると悲しくなりました。…私ごときに言われなくとも松永さんには既におわかりかと思いますが、お許し下さい。

原始仏教の単純明快さに帰依したらいかがでしょう。宜しければです。

エスの説いた山上の垂訓だけに帰依したらいかがでしょうか。宜しければです。

秘儀などありません。山上の垂訓も釈尊の比丘たちへ語ったことも内容は同じです。

ジェームズ・アレン

余計なものを剥ぎ取れば、イエス釈尊が同じことを言っていたのだと、私がようやく気がついたのはアレンのおかげです。深層構造が同じなんです。単純です。シンプルなんです。「悟っている/悟っていない」というゼロイチ思考である限り、悟りは来ません。悟りとはまっすぐに悟りつつあることなんでしょう、恐らく。無限の階段のひとつ目を昇ることが解脱だと思います。釈尊ですら悟った後とされる時期の後に、さらに進化し続けていることがわかるはずです。イエスですら磔刑の前の晩にはさめざめと泣きながら祈っていたのです。磔刑で息を引き取るときにも「エリエリラマサバクタニ」と。完璧なんてありません。オールオアナッシングを求めるのならば、それは人生の敗北です。

アレンの言葉

あなたの心は庭のようなものです。庭は耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからは必ず何かが生えてきます。ただし、野放しにされた庭から生えてくるのは、何の役にも立たない雑草だけです。あなたがもし良い人生を生きたいのなら、庭造りの名人が雑草を取り除き、そのあとにきれいな草花の種をまくように、自分の心の庭から悪い考えを取り除き、そこに良い考えを植えつけなくてはなりません。この作業を続けることで、あなたは、自分が心の中でめぐらし続けている考えと、自分の人生との関係を、日を追うごとに、より明確に理解していくことになります。あなたが繰り返し考えることは、たとえその内容が良いものでも、悪いものでも、いつか必ず表に現れてきます。このことを知ることは、人生の真理を知ることです。

http://d.hatena.ne.jp/hoshikuzu/20060227#P20060227KIKKOのあたりで、松永さんについて、かなり調べたり考えたりした記録を取ってあります。書いてあるのはほんの一部ですけれど。あわせてお読み下さい。