魏志倭人伝の里程は難解

邪馬台国に行くにあたって【厳密に言えばどこからか不定】ですけれど、南に、水行十日陸行一月行くと書いてあります。これだと里程がわからない。何里行くか明記していないわけです。ここに邪馬台国の位置が不明であることの大きな理由のひとつがあります。

唐六典

唐六典に、一日あたり五十里という基準が書いてあるのだそうです。 邪馬台国九州説(特に放射説)によく使われる根拠なのですけれど、これだと、陸行一月 = 陸行千五百里ということになります。 詳細は省きますが、邪馬台国の位置が九州に収まるくらいと解釈できるのですよね。

漢書西域伝ならオッケー、一日四十里ほど?

漢書西域伝ならば、ほぼ確実に陳寿は参照しているはずです。ですので、漢書西域伝から、陸行の一日が何里にあたるのかを計算できたほうが良いでしょう。 精緻に調べきったわけではないのですが、私が検算したところ、部分的に以下のようなことがわかりました。
西域にある「精絶国」と「戎盧國」との間は、道が険しいのですが、百六十五里あり、これを歩いて四日かかるとしています。つまり、陸行一日は概算で陸行四十里の換算となります。
また、街道沿いなど歩きやすいところでは一日あたり百里を軽く超えるようです。
ほかに、馬で走った場合はどうかなど、漢書西域伝は里程を考えるための資料の宝庫のようです。もう少し詳しく調べたいところです。

推察

陳寿は、倭人伝を書くにあたって、陸行で千百里ほどを、三十日とみなしたかもしれません。もちろん、悪路を想定してです。 陳寿が利用した原資料に、邪馬台国まで悪路で千百里と書いてあれば、これを、陸行一月と書いてもよろしいことになります。
これですと、四百里を水行で十日かかる換算が成立すれば、まさしく、陳寿が言うところの、「郡から邪馬台国まで一万二千里」と不可思議な行程の里数とが、完全に整合しそうです。
水行の里数の根拠をどこからか探さなくてはいけませんが、漢書西域伝にはなさそうです。砂漠ですからね、あそこらへんは。